前回からの続きです。様々なエグい体験をさせて頂いたシステム会社を一芝居打って無事に辞めることができたその後ですが、もう人事のメチャクチャな、中小零細企業はこりごりだと骨の髄まで思っていたので、派遣会社に登録して大手への就業を試みることにしました。
当時はこれまで派遣就業が規制を受けていた分野が解禁されたこともあり、”営業派遣”の流れに乗ってみることにしました(この動きが後にワーキングプアを大量に発生させることになるのですが。。)
まず最初に派遣されたところは、大手のフランチャイズの出店候補地を調査する仕事で営業とは違うのですが、なかなかの時給と残業が多く発生することもあり半年間の就業で随分稼がせてもらいました。これは派遣あるあるなのですが、給与だけを考えると、そこで雇われている社員と比較して格段にもらっているケースがままあるのです。それこそ若手社員が「え~っ」とビックリするくらい。。昔、引っ越しのアルバイトをした時もそこをやっかまれてイジメを受けかねない状況でした。しかし派遣労働者というのは、使う企業の側からすると雇用の調整弁みたいなもので、用が済めばすぐに期間満了でフィニッシュです。当然、賞与も交通費も支給されません。そもそも比較するようなものではないのですが。。。
ここでの就業は慣れない仕事だったこともあり、最初は相当疲弊しましたが、慣れるとなんてことはない、どちらかというとガテン系の仕事でした。場合によっては出店候補地の前後2km、合計で4kmにある飲食店の数を調べるなんてこともしましたね。
で、ここでの派遣を終了するとその後は合計で半年ほど、やはり大手通信系企業で営業と開発の仕事をします。営業はスポット的な案件だったのですが、東大や京大をはじめとして有名校の出身者が多い部署で非常にいい人ばかりで居心地が良かったです。終了時には花束まで頂きました。自分も最初からこういう人達と組めたらよかったのですが。。。例え派遣社員の身の上でも「株式会社〇〇という自分の名刺」を持てたことは単純にうれしかったですね。
その後、同じ会社の他の部門に派遣されますが、これがまた部署が違えば完全に別会社でして、またITエンジニアの巣窟に放り込まれました。。当初の話では、法人向けのシステム営業案件だったのですが、営業をするに当たり中身がわからないといけないだろうということで開発の部署に入りました。元々ある大型のシステムの仕様変更で、仕様書作成のフェーズに入りましたが例によってチンプンカンプンです。
また持病の?コミュ障もあって、コミュ障傾向の人が多いITエンジニアとはハレーションを起こすらしく、かなり精神的にはキツイ環境でした。まず会話ができない。。。。ついにストレスからメニエール病を発症してしまい。もう限界でした。こんなにまでして仕事にしがみついていたのは「〇〇に勤めている」という仮初めの肩書が欲しかったからだと思います。
結局3ケ月がんばってそこは終了しました。その後スポット的な仕事をこなしながら、また別部署の案件が降ってきたので、それを受けたのですがこれがトンデモなかった。大手とは言えダメな仕事やダメな人はいるし、ちっとも幸せそうに見えない人も多く見受けられました。何しろ当初の構想としては、ネット上の仮想空間における壮大なショッピングモールを展開する予定だったのですが、当時はまだ光回線は普及しておらず、ADSLもヤフーBBが仕掛ける前だったので”早すぎ”だったのです。
結局、つまらないショッピングモールになってしまい出店者が集まらないので力技で出店者を募る営業をマンパワーでするということになり、私もマンパワーの一人として駆り出されたのです。
大人しく我慢して仕事をこなしていればいいものを、あまりのバカバカしさに逆ギレしてしまい派遣終了となりました。
業務を託した〇〇としては、”黙って汚れ仕事を請け負ってくれる人”をオーダーしたにも関わらず、自己の分限もわきまえずに、真っ当な事を抜かされるのでたまったものではなかったでしょう。この辺の”物事が見えてしまう”のが私の資質の一つでもあるのですが、今から考えても相当ストレスが溜まっていて爆発してしまったのでしょう。
”営業派遣”という立場の無さを痛感した出来事でした。。。。
只、良かったのは曲がりなりにも〇〇で就業したという経験を履歴書に乗せる事ができるようになったことでした。社会復帰への足がかりを掴んだかに見えたのですが、その後の派遣の仕事が続かずに、人生史上最大の無職期間を迎えることになります。。。