キャリアというと、如何にも本人の努力次第、才覚次第でいかようにも形成できそうな言葉の響きがありますが、そう狙ったようにいかない不確定な要素も実際にはあります。
偶然の要素が強いのがそもそもキャリア形成なのだから、いかに偶発性を呼び込む確率を上げるかという考え方が「計画された偶発性」なのかな?と感じます。
わかりやすい例でいえば、人との出会いだと思うのですが、私も過去に気乗りしなかった誘われたイベントで生涯の恩人と言えるような人との出会いがありました。(たまたま隣に座った人だった。ちなみにこのイベントに誘ってくれた人とは今は付き合いありません。)
その意味では人生の伏線はあらゆるところに張り巡らすことが、偶然を呼び込むことにつながると思います。棚からぼた餅も、”棚”を作らないことには落ちてきません。
もう少し視座を上げると人生を如何に運んでいくかという話になってくるのですが、人生をうまく運ぶという点で人の出自というものに、私は触れずにはおれません。。。
正直にお話をしますと、自分の出自と自分の先天的な資質の不整合を、子供の頃から漠然と感じていた気がします。「なにか違う。。」「もし自分がこういう家に生まれてきて、こういう環境で育ったならば、、、」なんて事を夢想してました。
偶然にもこの世に送り込まれるのが人の人生ですが、もしもここに計画性が働く余地があったなら、かなり自分の人生は違うものになっていたでしょう。自分が生まれる以前の事はよくわからないので、自分が敢えて今の家や環境を選んできている場合もあるのでなんとも言えませんが、とてもではありませんが親と面と向かって言えた話ではありません。(もちろん、両親にはこの上なく感謝しています。)
話しがどんどん抽象化しそうなので、少し揺り戻すと、イギリスのような階級社会では、人々は自分の出自を最初から受け入れてるようなところがあるようです。
自分が労働者階級に生まれてきたならば、”労働者階級の人として生きれば良い”という強い価値観に従って生きる。というのは「ある意味、楽」な気がします。
日本は建前上は”階級”というものは存在しませんが、現実にはあります。それを公に認められないところが苦しみを生むのかもしれません。
実際には、結婚をして子供を持って家を持つということは、現代の日本においては、贅沢になりつつある。。というか贅沢になっていると感じます。
それぞれの階級(出自)に応じて分相応な生活を。。。という社会規範?が自然と機能するような社会であれば問題は少ないとは思うのですが、未だに一億総中流の意識を残す社会では、なかなか難しいでしょう。他者との比較の中で、仮に子供に十分な投資ができないことがわかれば、子を持つことに躊躇するというのは自然なことだと思います。ここを躊躇なく踏み切れるのは残念ながら、”若くして授かり婚”の人達で成人式の時に子連れだったりする人達が日本の少子化を食い止めているのが本当のところかもしれません。
だんだん論点がグダグダになってきましたが、環境というのは良くも悪くも与えられるものなので、自力で変えようにも変えることができないという場合が多いと思います。
限られた制約条件の中で、自分が何に取り組んだら一番成果を上げられるのかを常に模索しながら人生史上、最上のモチベーションで日々取り組んでいる気がします。