ついつい自らの辛い体験になぞらえて、ブラック企業のお話を繰り出してしまいましたが、大人社会で陰に隠れて起こっている問題は子供社会にわかりやすく投影されます。
その最たるものが”いじめ”問題ですが、オリンピック開催やコロナの話題にかすみつつありますが、旭川の中学生の少女が自ら命を絶った今回の事件は個人的には今年一番の衝撃です。
私も高校生の娘がいるので他人事とは思えず、正視するのがつらいです。
加藤秀視さんが署名特設サイトを開設していますが、このサイト内でも記載されているように
『いじめについて学校側に相談・訴えを何度も行っていたにも関わらず、学校側が適切に対処しなかったこと』
が最大の問題だと感じます。
しかしながら当該の学校に「適切に対処」する能力があったのか?対処しなかったのではなく対処ができなかったのではないか?という疑念を感じてしまいます。
漫画「鈴木先生」を読めばわかるのですが、先生も私たちと同じ人間であり(サラリーマン同様色々な人がいる)学校という職場で適応し続けるためには様々な制約条件を飲まなければならず、デフォルトとして”冴えない物言いしかできないパーソナリティが出来上がるのではないでしょうか?
ごく一部のヤンキー先生やファンキーモンキーティーチャーを除いて、多くの教師は制約条件の中で生きていると思われます。
つまりは自己保身をするしかない組織システムの中で生きているので”あのような見解や対応"が出てしまうのでしょう”
公立学校には様々な人種の人間が一同に会するカオスな場なので、色々なことが起こります。中学校という場は、はっきり言って座学の勉強をする場ではなくて”人生体験”をする場と言っていいでしょう。この場を交通整理して取り仕切るには、相当の修羅場経験を積んだ人物でないと厳しいのではないでしょうか?
表面上は問題なく学級運営できているようで、実は先生は舐められているし、先生と生徒間ではお互いの領域を踏まないように暗黙のすみ分けが出来ていて(その方がお互いに面倒がない)深刻ないじめがあっても立ち入れずに卒業を待つということがそこかしこで起きているのでしょう。実際に問題が表面化して法的に争われても”それは学校外で起きた事”と言えるように普段から意識していないと
「わいせつ画像の拡散は、校内で起きたことではないので、当校としてはイジメとは認識していない」
という言葉はなかなか出てこない。。学級運営とは”良い子の多大な犠牲の上に成り立つ”と確か鈴木先生のあとがきに書いてあった気がしますが、これがいつまで続くのか?
繰り返しますが学校の先生も一人の人間である以上、運が悪いとサラリーマン同様に良心をドブに捨てて組織のモラルに準じるということはままあるだろう?! 学校を取り巻く組織デザインが、教職を志した人の良心が働きやすいシステムになって欲しいと願うばかりです。
ブラック企業といい中学校の問題といい、組織の問題は本当に山積していると感じる。だからこそ社会課題として官民あげて取り組んでいかねばと感じているこの頃です。