自分2.0へ! 50代からの再挑戦・自己覚醒録

人生のリカバリーショットを放つべく再キャリア構築の旅https://blogmura.com/ranking/in?p_cid=11013598

毎朝の駅のホームで”ブラックアウト”

前回からの続きです。一年間の路上でのモデム配りを終えた後に、同じADSL繋がりになりますが、知人の紹介で訪問設定サポートの仕事をしていました。当時年齢は35くらいになっていたのですが、どうみても20代にしか見えない風貌だった事もあり、お母さん方からは可愛がって頂くこともままあり、次の訪問で急いでいるのに「お昼ごはん食べていきなさい♡」とありがたいお言葉を頂きカッくらった思い出があります。自分の息子と同年齢くらいに思われたのでしょうね。

しかし、トラブルが発生してこの仕事も突如終了。。さてどうしたものか。。と思っていたら、また派遣会社から電話がかかってきて「案件の紹介がある」とのこと。。。

話しを聞いて見ると、前回のADSL事業者の本社での管理業務の案件でした。私には選択の余地はないので、当然受けるしかありません。引続き同じ派遣チームからの紹介だったのですが、ここのリーダーの無能ぶりに(失礼)内心腹を立てていたので、余計な事を言わずに良かったと思いました。

そして、形の上では現場から本社上がりとなりまして、ADSL販売事業の統括的な部門で仕事をするようになりました。就業上は事務の派遣の扱いになり、時給は下がったのですが、かなりマネジメント的な事も要する業務だったのでこれは再考をお願いすれば良かったと思っています。(何しろアルバイトの面接もやったりしたので。。)

当時の私の健康状態は、長年の心理的疲弊もあり決して芳しいものではなく、ハッキリ言って体調悪かったです。加えて先に自己開示したように、コミュ障も抱えていたので会社組織のようなクローズドな環境では如実にコミュニケーションギャップが現れてきます。最近はお陰様で解脱且つ卒業できてから久しいので、人と会うのに抵抗感があるとかはほぼないのですが、当時はかなり心理的に負荷がかかっていたと思います。

まぁとにかく慣れないうちは業務が大変でした。気がつくと夜の11時になっていたなんてことはザラで。「終電逃したらタクシー使っていいよ。」と軽く言われる環境でした。一回そんな前例作ったら、”こいつは遅くまでいても大丈夫だ”と思われてしまうので意地でも終電で帰宅していました。夜になると会社の前でタクシーがたくさん待っていたのを覚えています。毎日のように乗換駅での終電ダッシュ。そして夜の12時を過ぎてから、セブンイレブンの牛カルビ弁当を家で食べていたのをある種懐かしく思い出します。(二度と戻りたくなないですが)。。。健康診断したら血中コレステロール値でひっかかっていました。毎日、牛丼、カレー、ラーメンだったので仕方ありません。。。

とにかく疲れ切っての深夜帰宅にも関わらず、翌朝はきちんと起きて会社へ行かねばなりません。1時間30分はドアツードアで要したと思いますので、そんなにはゆっくり寝ていられません。毎朝、ターミナル駅のホームに降り立った時に貧血でブラックアウトを起こしながら歩いていました(本当の話です。念の為)

もうこれでは持たないので、駅の薬局で800円のドリンクを気付け薬代わりに飲むのが日課となりました。。。日中はどうしても眠くて仕方ない時はトイレの個室に入って立ったまま寝ていました。本当に寝てしまいフラっとした時にあわてて目を覚ましてました(本当の話しです。念のため)

そのような過酷な職場においては、男女共に体育会系が多く、あちこちで怒号が飛び交う職場だったと思います。女性の口の悪さが職場の品性の無さに花を添えていましたね。

色々とコンプラ違反な事も多かったし、社会的にも問題なっていたので、せっかく新卒で入社した社員なのですが、変なところで板挟みに合ってしまって辞めてしまった人もいました(そりゃそうだろうな)また内定決まっていても、親の反対で辞退した人もいました。

こういう職場環境を俯瞰してみると、結局どこのポジションを取るのかで社内での寿命が決まると感じます。総務やシステム部門の方が安全ですね。財務は苦しんでいたし営業は色々な意味で麻痺していました。只、俺が俺がという上昇思考のある人で若くして上位のポジションを取ると面白いと思います。(人に対する同情心の薄い人でないと無理)驚いたのは皆、年齢の割に老けている人が多いこと。。労働の強度の強さを物語っています。

ここでも一年間の就業を持って派遣終了となりました。派遣→社員という人が非常に多い職場でしたが、営業部門に限って言えば自分の場合には疲弊して終わりそうなので、そこは目指さずにここまでで終了しました。

そして再び無職期間を迎えることになります。。。